2011年2月19日土曜日

わが愛聴盤<ROCK篇>

久々の愛聴盤ネタですが、今回はROCK篇。
私メも多感な中高生時代はROCK聴いてました、てなわけですが。
中学の時に出会ったのが、CHICAGO。

1967年にデ・ポール大学の学生たちが中心になり、前身バンドである"ビッグ・シング"を結成。1969年にガルシアのプロデュースによりコロムビア・ レコードからデビュー。その後、"シカゴ・トランジット・オーソリティ(シカゴ交通局)"から"シカゴ"とバンド名を変えたが、これはシカゴ交通局からの 苦情がきっかけであった。バンドはデビュー・アルバムから3作連続で2枚組アルバムを発表。1970年にはシングル「25 Or 6 To 4(邦題;長い夜)」が世界的に大ヒットした。(Wikipediaより)

彼らの長いキャリアの中で特に好きなのはこの作品。
”Chicago at Carnegie Hall <邦題> シカゴ・アット・カーネギー・ホール”
これ、1971年のリリースですから、今から四十年以上前ってことかあ(^。^)
発売当時はレコード4枚組、結構なお値段でした。
僕は、バラ売りされていたカセット・テープ版のレコード4枚目を購入しただけでしたが、それでも大満足で聴いたもの。
CD版を手に入れたのは、ほんの数年前。ふと、この熱気あふれるライヴを聴きたくなったのです。
仲のいい友人や後輩とカラオケすると時々洋楽ナンバー歌合戦になるのですが、自分はシカゴのヒットナンバーを歌うことが多くて、「あれ?これってメロディ間違って覚えてない?」などと内心気になっていた次第。
この四枚組CDには僕の口ずさんでる曲、全て入ってます。

 特に気に入っているのはデビューアルバム収録の「いったい現実を把握している者はいるだろうか?」(原題:Does Anybody ReallyKnow What Time It Is?)。

僕がある日通りを歩いていたら/一人の男が近づいてきて僕に尋ねたんだ/「君の腕時計では今何時?」ってね/僕は彼に言ったさ/今、何時か、本当に知ってる人なんているかい?/時間を本当に気にかけてる人なんているんだろうか?/もしそんな目覚めた人間がいるとしても、僕には彼が何時か分かっているという理由を想像できない/そう、僕らは空しくも泣く時間が多すぎたんだ。
(中略)

またある日、僕が通りを歩いていたら/時計を壊そうとしている人々がいたのさ/何故か知らぬうちに/僕は彼らに押され、突つかれた/それで僕は彼らに言った/あらゆるところへ走リ去る人々/何処へ行けばいいのか分からない/自分がどこにいるのかさえも分からない/次のに進む先は何も見えない/過ぎ去った1マイルを考える時間すらない/周囲を見回す時間もない/ただひたすらに走り回って/そうして理由を考える

四十年以上前の曲ではあるが、これは現代をも射抜いているように思うのは僕だけでしょうか。私たちは何者かに急き立てられるように走り回っている。それは、いつも時間とか時代の所為にされるのだけれど、いったい時間とは何か?時代とは何か?何もかも時間や時代の所為にして良いものだろうか?僕はこの曲を聴く度にそう考えてしまいます。

僕はシカゴ、B,S&Tなどは中高生時代に聴いててましたが、所謂ジャズ・ロックだとかブラス・ロックとジャンル分けされてたバンドは、かつて沢山あったわけですが、その頃はバンド名だけ知ってて聴いたことない、ということが多々ありました。最近、ジャズのCD以外についつい購入してしまうのが、往年のジャズ・ロックのバンドのもの。列挙すると、IF、ソフトマシーン、コロシアム、タワー・オブ・パワーってところ。今後、すこしずつ紹介していきますので乞う御期待。

2011年2月15日火曜日

只今特訓中!!

えー、毎年2月末は吾が師大井際断老師の誕生会を開催します。
今年は2月27日、浜松市内の某ホテルのレストランを会場にということで段取り。例によって宴会部長の私メは、主賓及び参加者の皆様に少しは賑やかに楽しんで頂こうと色々と企んでおります。昨年は、朋友の和尚お二人の歌&ギターに私メのサックスという編成で二曲ほど演奏。練習不足でかなりトチリましたが、結構好評。というわけで、今年はしっかり練習しましょうということで演奏曲も早めに決定してギター担当と歌担当の面々に譜面お配りした所、歌担当は当日京都経由大阪ご出張で残念ながら欠席。頼みのギター担当は、愛用ギター片手に今回の選曲に挑戦したところ「コード難しくてお手上げ・・・・・」とのお返事。困り果てて、当日ご出席予定の声楽家の先生にピアノ演奏をお願いしたところ快諾いただき、昨日(2月14日)ご自宅のレッスン室にお邪魔して音合わせしてきました。僕の選曲したものはジャズのナンバーなので、ちょっと戸惑い気味でしたが、こちらは生ピアノに合わせてサックス吹けるので気持ち良いこと(^.^)二時間ほど時の経つのも忘れて練習しました。

演奏曲は二曲。
1.ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ
アメリカの作詩作曲家コール・ポーターによる1943 年のミュージカル映画 『Something To Shout About』の挿入歌ですね。ヘレン・メリルがクリフォード・ブラウンと共演したアルバム収録曲は余りにも有名ですね。インストではアート・ペッパー、キャノンボール・アダレイの名演は僕の大好きなナンバーです。

2.モリタート
原曲はベルトルト・ブレヒトの戯曲『三文オペラ』(原題:Die Dreigroschenoper)の劇中歌『メッキー・メッサーのモリタート』(クルト・ワイル作曲)。御大エラ・フィッツジェラルドが『マック・ザ・ナイフ』というタイトルで歌って大ヒットし、インストではソニー・ロリンズの名演があります。シンプルなメロディですが、なかなかの難曲^_^;

明日は会合でギター和尚様と御会いするので、「コード拘らなくて良いからオブリガードで参加して」と口説く予定です。二曲とも有名な歌でもあるので、弾き語りで歌って貰うのも一興かも。来週25日にも練習するので、こちらも個人練習みっちりやらなきゃ^_^;
本番が楽しみです。

2011年2月12日土曜日

長崎へ

2月8日から二泊三日でわが本籍地長崎へ。
今回の旅の目的は、市内の霊源院さん訪問と伯母宅訪問でした。
中部国際空港から長崎に降り立ったのが8日夜。
駅前のビジネスホテルにチェックインして、少し遅い夕食は、こじんまりした中華料理屋さんで長崎名物の定番、皿うどんと一口餃子。いやあ、久しぶりで美味しかったあ(*^。^*)



翌9日は、お昼前に長崎駅で山口の常栄寺住職をお出迎え。軽く昼食を取った後、タクシー乗って霊源院さんへ。こちらは、長崎県の名勝。「滝の観音」と言えば知らぬ人なし。

こちらの御住職は、岐阜県伊深の正眼寺で梶浦逸外老師に永年師事し、その法を継がれた方。山口の常栄寺御住職の大先輩にあたります。
僕が霊源院住職と初めてお会いしたのは、二十年前。初対面の際から「禅僧のあるべき姿」を、もの言わずとも示してくださっているように思え、依頼遠方にありながら尊敬申し上げるお方。
ご挨拶の後、霊源院御住職みずからお茶の御接待頂き、しばし歓談。「せっかっく長崎へ来たんだから、一緒に夕飯でも」とのご提案で、長崎駅前のホテル最上階の中華料理レストランで会食。紹興酒を頂いて更に歓談。「話り尽くす山雲海月の情」と相成りました。

10日は早めにホテルをチェックアウトして常栄寺御住職と共に駅近在の福済寺へ。こちらは長崎観音で有名ですが、原爆投下前には長崎でも有数の七堂伽藍を有する名刹だったところ。こちらの御住職も常栄寺住職とは御縁がある中。あいにく福済寺の住職は外出中でしたが、幸いにして連絡が取れ、駅前の喫茶店で茶飲み話。
常栄寺住職を十一時過ぎに見送って、僕は従姉と待ち合わせ。ランチして一路、伯母宅へ。真っ先に歓迎してくれたのはペットのワンちゃん、コナツ。
(写真撮影忘れちゃった。。。)
十六年?来の愛猫トムちゃんは定位置に陣取ってお出迎え。二十年以上前に伯母宅の二階で寝てたら、朝起こしに来てくれたのはトムちゃんだったのかな。


お茶頂きながら、ゆっくりと四方山話。
なにはともあれ伯母上には元気でいて欲しいもの。

僕は夕方発の中部国際空港行き飛行機で帰浜。
機中からの長崎夜景を眺めていると、感慨しきり。
長崎には伯母はじめ肉親の方々と法縁で繋がれた霊源院住職が居て下さる。自分はこれらの人に背く事なきよう己が務めを只管に為すのみ、と。

カレイドスコープwith森山瑞樹師匠ライブ

一週間以上も前の古新聞じゃない?と突っ込みの声が聞えますが。。。。
当ブログで告知した表記のライヴ報告です。


ライヴ当日(1月29日)は、わが本業関係の会合&遅まきの新年会(!!)が重なってしまい、ライヴ会場に駆けつけたのは夜九時を回っていました^_^;
しかしながら会場は和やかな雰囲気に包まれていて良い感じ。
”JAZZ&POPS”というテーマが功を奏したのかと思いきや
お客様のリクエストはジャズの定番の連続(って数曲しか聴いてないけど・・・)
わが兄弟子も”As Time Goes By”なんかリクエストしちゃいましたし。
森山師匠もアルト&ソプラノサックスでご活躍。

僕如きが云々するまでもなく、進境著しいという印象。
良水さんの歌に絡む数々のフレーズといい、ソロといい、
良い感じです。

わが敬愛するキャノンボール・アダレイがナンシー・ウィルソンと共演したCD収録の音源の数々を連想したのは私だけでしょうか。

閑話休題。
ライヴ終了後、僕はカウンターに集まった面々と共に
サッカー日本代表がアジアカップの決勝戦で大奮闘して優勝を決める瞬間をハラハラしながら見守り、祝杯を挙げたのでした。

2011年2月6日日曜日

2010満月まつり<報告集>より

毎回、満月まつり<報告集>が、スタッフの編集により
発行していますが、これに寄せた拙文をアップします。

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2010年満月まつりを終えて

満月まつりも会を重ねる毎に個性豊かな出演者の熱演が見られるようになった。誠にありがたいことであるが、当方のレベルとはますますかけ離れて行く様で内心穏やかではない。(今年も、演奏トチッタし・・・・)
当日の反省会でも訊かれたことであるが、こういったイベントはマスコミ的には動員人員が一番の関心事となる。内容はそっちのけ、主催者に開催の主目的など聴取し、出演者の顔ぶれを記載したプログラムを手に二三枚の写真撮影して、「では明日の朝刊あたりに掲載されますから云々」という感じで新聞社の記者さん方は会場を後にする。まあ、彼らは批評家ではなく、ある日ある時の出来事を伝えるのが仕事なのだから文句は言えない。しかしながら、本来問われるべきはイベントの内容そのものであり、スタッフや出演者の思いを聴衆の方々一人一人に伝えることが出来たかどうか、ということであろう。こんな当たり前のこと、今更言うまでもなかろうが、職業柄さまざまなイベントに関わらざるを得ない身にとってしばしば忘れがちなことなので、敢えて再確認しておく。昨年であったが、多くの観客を動員し一流のスタッフ、出演者に恵まれながら、根幹となる脚本やイベントそのもの趣旨のお粗末さを目の当たりにした。地元政治経済界の御歴々が関わっているイベントゆえ批判的なコメントは余り耳にしないが、この時の居心地の悪さと言ったらなかったのである。動員人数に幻惑され内容を蔑ろにしたイベントは、近い将来見向きもされなくなるであろう。
今年の満月まつりでは、若い世代による沖縄の現状リポートが聴かれた。プロジェクター投影される映像と共に印象に残ったのは、彼らの熱い思いである。エイサーを通して沖縄の土地、文化、人々に触れ、その中で沖縄の現状を目の当たりにして感じ取ったものは何か。今、ここで伝えなければ、という熱く性急な思い。それらが滲み出ている彼らの一言一句を聴いていると、頼もしく思えたのは私だけではあるまい。彼らの思いは、言霊に乗って当日の聴衆の一人一人に届いていたに違いない。満月まつりの出演者やスタッフの面々、全ての方々にこれは通ずるところだ。
これを共同幻想と嘲笑する輩も居るかも知れぬ。しかし、どうであろう。カオスなのかフラクタルなのか判然としない現代において、醒めた視線でこの世の中の動静を見る事ほど無益なことはない。今回の満月まつりプログラムの拙文に引用した山口洋の言葉を借りれば、「解き放て 命で笑え」(『満月の夕べ』)なればこその満月まつり、なのである。
斯様な文章を綴る切っ掛けを下さった、満月まつりスタッフや出演者各位に改めて御礼申し上げ、報告集の挨拶に替えさせて頂きます。
2011年1月大寒 薬師寺良晋
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2010満月まつり<プログラムより>

去年の12月の出来事ですが、自分としては気合入れてかいた文章なので
アップしておきます。

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〇満月の夕べ〇

時々、ふと口ずさんでいる歌の一つに『満月の夕』がある。御承知のように、この歌は十五年前の阪神淡路大震災直後、被災地の神戸で慰問ライヴ活動を開始したソウル・フラワー・モノノケ・サミットの中川敬が、神戸市長田区の南駒栄公園で行ったライヴの光景を元に、ヒートウェーヴの山口洋と一気に書き上げたものである。
自分も震災直後の二月、有志と共に被災地の西宮へ炊き出しボランティアへ行った。この歌の次の段に至ると、声が詰まってしまうのは僕だけだろうか。(以下、ヒートウェーヴ版を引用する。)

夕暮れが悲しみの街を包む
見渡すながめに言葉もなく
行くあてのない怒りだけが
胸をあつくする

声のない叫びは煙となり
風に吹かれ空へと舞い上がる
言葉にいったい何の意味がある
乾く冬の夕

震災直後の瓦礫の山を目の当たりにし、淀川を境にした大阪以東の町々、故郷浜松が何事もなかったかのように住宅やビル明かりきらめく、その落差に愕然とした思いが甦って来る。「言葉にいったい何の意味がある」とはいえ、あの時西宮へ行った経験は自分の中の転機となった。いったい自分は、宗教家として、一個の人間として何ができるのか?どうあるべきなのか?今も突き付けられ、自らに問い続けるフレーズだ。
2001年の9月11日、僕は夜の酒場のカウンターのテレビで世界貿易センタービルに二機目の旅客機が衝突する映像をリアルタイムで見た。まるで映画のワン・シーンのように見えたが、一瞬我に帰った僕は、咄嗟に「これはテロだ!」と叫んだ。この夜の浜松の光景は、何故か阪神淡路大震災当時に帰浜した際に感じた落差と余りにも似通っていた。
帰宅するタクシーの車中で、僕の頭の中では山口洋の歌声が響いていた。

絶え間なくつき動かされて
誰もが時代に走らされた
すべてを失くした人はどこへ
行けばいいのだろう

阪神淡路大震災と9.11同時多発テロ事件を経て、日本は、世界はどうなったか。こんにち、阪神淡路の震災後の復興のめざましさは目を見張るばかりだ。テロ後のアメリカも復興された町並みは周知の通り。しかし、テロ以降に分かった事実とは何か。それは世界的なキリスト教(ユダヤ)文化とイスラム教文化との宗教的対立・戦いは果てしなく続く、ということだ。昨今の東アジアに於ける軍事的・経済的緊張事態はイデオロギーの対立が根底にあるが、これとてキリスト×イスラムの対立関係と無縁とはいえない。アメリカの、親ユダヤ主義の思惑一つが東アジアの動向を左右しているのは周知の事実である。
いまだ閉塞観しか感じられない時代状況の中で、この国の現政権の脆弱さを見るにつけ、平和な世の中、平和な時代の到来は望むべくもないのだろうかと思ってしまうのは自分だけだろうか。巷の政治家達や評論家達の語る戯言に耳を傾けると、「~だと思いますけど。」という語尾で終わることが多い。一般市民も同様である。「~だと思いますけど。」、その「思いますけど」どうなのか?どうあるべしと思うのか?
しかし、しかし、である。こういう時こそ自分の無力さに気付き、自分の足元を見つめ、自分に出来ること、自分の目指すものを再確認すべきなのだ。

それでも人はまた 汗を流し
何度でも出会いと別れを繰り返し
過ぎた日々の痛みを胸に
いつか見た夢を目指すだろう

ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊る
ヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る
解き放て 命で笑え 満月の夕

これまでの満月まつりも、今年の満月まつりも、音楽や詩の朗読など盛りだくさんのプログラム。それぞれの出演者の熱き思いが、皆様方の心の、いな命の底から平和を願う思いに醸成されんことを!

2010年12月19日 満月まつり浜松の会 代表 薬師寺良晋
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