昨日(1月19日)の朝刊記事見出しを見て絶句した。「浅川マキさん死去 アングラ歌手の女王」 ・・・。すぐさまWEBのニュース記事をざっと閲覧。浅川マキ公式ホームページに掲載されている名古屋市のLovelyでの三日間ライヴの最終日を控えての急逝だったことを知る。生涯を歌に捧げた彼女らしい死ではあるが、それにしても惜しまれる。
僕が浅川マキを知ったのは、小学校六年の頃。昼さがりのワイドショー(確か、『三時のあなた』だと思う)に出演した彼女は『夜が明けたら』を歌った。その一曲は、当時『ヒットパレード』に登場する数々の洋楽ナンバーとは明らかに違う歌だった。ブルースってこれか?彼女の黒ずくめの姿、声、メロディー、全てが僕の心に焼きついた。
その後、中学の頃か寺山修二の『家出のすすめ』などを読むうち、初期の浅川マキの歌は寺山の作詞によるものが多いのに気づく。そんな頃に新譜ジャーナル社から出た『浅川マキの世界』という特集誌(今で言う”ムック”か)に出会う。代表曲のほとんどの譜面、インタビューなど構成されたこの一冊は今も僕の宝物だ。
このブログに、僕が大学時代を京都で過ごしたことは既に書いたが、”JAZZ IN ろくでなし”という昼間はジャズ喫茶、夜はジャズ・スナックという店があった 。常連というにはおこがましいが、元日活で助監督をしていたマスターは店に浅川マキの大きなポスターを貼っていた。僕は時々しかリクエストしなかったが、森山威男や浅川マキをかけてとマスターに言うと、機嫌よくレコード棚から取り出してターンテーブルに乗せてくれた。
学生時代に付き合った女の子が、僕の書棚から『浅川マキの世界』を見つけ、僕の拙いギター伴奏で彼女がお気に入りの『かもめ』や『ガソリン・アレイ』など歌ったこともあった。
浅川マキは「アングラ歌手の女王」というのが世間での評価かも知れぬが、僕は数少ないオンリー・ワンの歌い手であったと思っている。彼女は、ジャズやブルースという黒人音楽をルーツとする精神を自らの血肉とし、オリジナルの楽曲にまで昇華した歌手である。彼女のスピリットを継承している歌い手は、今の国内音楽界に果たして居るであろうか。そんなことを考えながら、昨夜はずっと彼女の歌を聴いていた。
とまれ、僕は浅川マキの歌声に出会えたことを生涯の喜びとして、残された音源を大切にしたい。